エスプレッソ・メモリィ
当時27歳 創作いつぞや応募したコーヒーストーリーの、2作品目として書きかけていたものを、Kuboon27周年記念に仕上げてみたので公開。フィクションです。
出来立てのデパートのキッチン用品売り場を、用もなくぶらぶらしていた僕は、はっとして足を止めた。「マキネッタ」という言葉にはまるで聞き覚えがなかったが、その値札が指しているモノには見覚えがあった。それは白くくすんだ金属製で、黒いプラスチックの取っ手がついていて、形は、そう、なんでも八角形の「八角星人」が作った雪だるま、みたいな形。いつどこで見たのか、まったく思い出せない。でも僕はこれを、間違いなく知っている。
僕の手はほとんど無意識に伸びてゆき、売り物のマキネッタを取り上げた。3800円。上部にフタがついていて、開くと、内部の中央に煙突状の突起。そこに巻きつくようにして、細かく折りたたまれた紙が納まっている。謎解きのような気持ちで紙を取り出し、指先でそっと広げてみた。その紙きれには「エスプレッソの作り方」が図解入りで書かれていたのだが、目に入った文字や図を、僕は見ていなかった。ただ、自分もこうやって、何かを折りたたんでマキネッタに入れたことがある、その記憶の折り紙が、ちょうど今指先で広げている紙切れのようにもどかしく、頭の中で広がってゆく。
30分ほどの道のりを、僕はただぼんやりと歩いた。努めて、ぼんやりと歩いた。うまく説明できないが、手がかりの無いものを思い出すにはこうするのが一番、と、僕は何となく信じている。
15年ぶりの実家にたどり着いたとき、かろうじてかき集めた記憶の断片が、今度は急速に連なりあって映像となり、次々と甦り始めた。庭を片付けていた母親からシャベルを借り、すぐに近所の公園へ向かった。大きな2本のイチョウの木があるはず。思い出すにしたがって早足になり、しまいには駆け出していた。2本のイチョウの、ちょうど真ん中!
10センチほど掘ったところで本当にそいつが出てきたとき、僕は心の内まですっかり5歳に帰って、大きな声を出しながらはしゃぎまわった。
土にまみれていたものの、それが「マキネッタ」であることは間違いなかった。
上部のふたを開けると、やはり、小さく折りたたまれた紙切れが、巻き付くように納まっている。
「ゆうじ と ひなこ の やく束。2007年7月24日 20才で また 合いましょう。」
なんとなく尻切れトンボの、その幼稚な文章を見ると同時に、僕の記憶の再生もぴたりと止まってしまった。
「あら、覚えてないの?あんた、いつもあの前通ってたじゃない。」
お店に着いたとき、母がああいうのももっともだと思った。周囲の景色から並外れて高貴で、そこだけ治外法権みたいな洋館。実際、僕は小さい頃からこの建物を知っていた。近くに幼馴染の家があって、何度もこの前を通ったことがあるのだ。でも、何の建物か知らなかった。ちょうど、このマキネッタと一緒だ。形は知っていたのに、何に使うものか知らなかったのだ。
細かく挽いてきてもらいなさい、それを見せればわかるから、と、母に言われるままに、僕は初めてその洋館「たになかコーヒー」に足を踏み入れた。掘り起こしたマキネッタを片手に。家の水道で、土は綺麗に落としてきた。
涼しい店内では、上品な客が数組、コーヒーを楽しんでいた。ガラスのショーウィンドウの中に、緑色のコーヒー豆(煎る前はこんな色なんだ。。)がずらりと並んでいる。その向こう側に立っている店員が意外と若かったことに僕は少々おどろいた。同い年くらいだろうか。
本当は意外でもなんでもないのかも知れない。友人たちはみんな喫茶店やらコンビニやらでバイトをしている。ちょっと前まで、喫茶店やコンビニの店員っていうのはみんな自分より年上だったのに、いつの間にか同じくらいになってて、あと10年もしたらきっとコドモみたいに見えてくるんだ。街の中で、自分だけが年をとっていく。。。もちろんそんなわけないけど、そのときはふと、そんな気がした。
「あの、これで使えるコーヒー豆が欲しいんですが。。」
僕はそういいながら、右手で持っていたマキネッタを、同い年くらいの店員の目の前に差し出した。
店員はマキネッタを受け取ると、両手でくるくると角度を変えながらそれを観察した。
「ずいぶん古いようですけれど、多分ちゃんと使えると思います。」
専門家のような仕草と眼差しが予想外で、僕は変に緊張した。見た目から、ただのバイト店員だろうと勝手に思っていたのだ。店員はしばらく観察を続けた後、底を左手で支え、取っ手の付いた上半分を右手でひねるように力をかけた。
「あれっ、固い、、、ちょっと開けてもらえます?」
「え?」
僕は驚いて思わず店員を見た。その瞬間まで、僕はマキネッタのその部分が回ることを知らなかった。いや、忘れていたのだ。一時停止していた記憶が、またゆっくりと流れ出した。店員から無言でマキネッタを受け取り、両手に力をこめる。
15年前、家の押入れに眠っていたマキネッタを、両親に内緒で持ち出した。ちょうどテレビで見たタイムカプセルになんとなく似ていたからだ。引越しの前日、当時仲の良かったヒナコという女の子と二人で、半分に破いたメモ用紙に約束を書きとめて、このマキネッタの上半分に納めた。マキネッタは上半分と下半分にそれぞれ個室があって、上半分は簡単なフタだが、下半分はネジになっていて、ちょっと力がないと開かないし、しかも一見開きそうにない。僕はその秘密をヒナコには黙っていたんだ。15年前、ヒナコは知らなくて僕だけが知っていたんだ!!20歳で再会するはずのヒナコに宛てたメッセージが、このマキネッタの、下半分に、まだ入っているのだろうか?ヒナコはまだ、この近くに住んでいるのだろうか?
中央部のネジがゆるむと、15年間閉じ込められていた空気がそこからゆらりと染み出るのが見えるかのようだった。目の前で開いたマキネッタの下部から、残り半分のメモ用紙がのぞいていた。そこに何を書いたかは、もう、見なくてもはっきりと思い出している。記憶は早回しで再生を続け、僕はいますぐ洋館を飛び出して、あの家へ行かなければ、と思った。幼馴染の、ヒナコの家へ。
ちょうどその時、お店の奥から女性の声がした。
「ヒナコ、電話よ。」「あ、はーい!」
瞬間的に、僕は目の前の店員の胸元の名札を見た。谷中 琲奈子。。。コーヒーの、「ヒ」だ。。
琲奈子に気づかれないように、開いたマキネッタからメモ用紙を抜き取ると、あわててポケットへしまいこんだ。
右手で握り締めたメモ用紙は、もう既に汗でにじんでしまったかも知れない。それをほんの少し残念に思いながら、僕は、店の奥で電話をしている琲奈子の横顔から、目が離せない。