自分に呪いをかけない
当時36歳 思考逃げ恥の最終回で「自分に呪いをかけないで」という名台詞があったが、この「呪い」という概念は本当に重要だ。
つい先日も子育て関係の記事でこんなのがあった。自分が子供を持つ前、店内で騒ぐ子供をどうして親が黙らせないのか、と迷惑に感じていた、ところが、自分が子供を持ってみると、店内で子供は騒ぐ。その時、過去の自分が思い起こされ、周りから責められているような気持ちになるのだ、と。
過去の自分と、今周囲にいる他人にはなんの関係もないのだが、感情というのは往々にしてそういう理屈が通らないもので、嫌な気持ちがしてしまうものはやはり嫌なものだ。
私は小学2年生まで視力2.0だったのが、その後急激におち、中学に上がる頃の検査で「眼鏡が必要」と言われた。
その時、どうしようもなく悲しい気持ちになり、思わず涙がこぼれるほどだったのだけども、大人になってから思い起こしてみるとあの気持の半分くらいは、当時近所に住んでいた年下で眼鏡の男の子を「めがね」と呼んでからかっていたせいだと気づいた。
身体障害者や精神障害者を嗤う人間というのはどこにでもいる。私の知る限り、子供は基本的に嗤う。嗤う人間はなぜ嗤うかといえば「自分はああはならない」と信じているか、もっと単純に、自分もそうなる可能性を想像もしたことがないからだ。だから子供は嗤う。
さて、そういう人間がいざ事故などで障害者になった時、過去の自分に苦しめられるのだ。これが「自分にかける呪い」のメカニズムである。自分が嗤っていた対象に、自分がなってしまうというのはなかなか受け入れがたいことだろう。
他者に対して「人間のクズだ」とか「ああはなりたくない」などと感じたときに、自分がその立場に将来立つ恐れはないかどうか、少し考えたほうが良い。
もっとライトな話として、「こんな漢字も読めないの?」とか「こんな計算もできないの?」などと見下すことも、ひょんなことで自分に帰ってくることがある。
他者を嗤ったり見下したりしないように気をつけていると、いろんな呪いから開放されて随分気楽に生きられるようになってきたなあと実感する。
博愛とか道徳的な意味を抜きにして、純粋に自分のために、必要なことだったのだ。
「因果応報」という言葉もあるが、この言葉にはメカニズムが説明されてないので私はあまり好きではない。