親切な占い師

当時24歳 創作

去年の秋ごろだったか。僕は毎週、即興劇のクラスを受講していて、その自主トレーニングとして短編を書いてみようと思い立った。10分というタイムリミットを決めて、とにかく話を作る。それを毎日やってみよう、と。
ところが、最初に書いた作品がなかなかに気に入ってしまい、もっときちんと練りこみたくなった。足りない部分を補いつつ、一番表現したい部分を最小限の言葉で伝えるように。
そうこうしているうちに時が経ち、そろそろ公開してみようかな、と、いう次第。

創作短編を書くなんて、中学校の課題以来かも。まあ、僕と面識のある人なら、多少は楽しめるんじゃないかな。(大抵の芸術作品はそんなものだ。作品だけで感動させれば本物だと思う。)

前置きは以上。では、どうぞ。


今日は久しぶりに、眼鏡無しで1日を過ごした。

少し、眠い。
裸眼で読めるぎりぎりの距離にスケッチブックの端があって、ぎりぎりの文字で「描いていいですか?」と書かれていた。ぼんやりと。眼球が重い。

目の前のスケッチブックは、控えめなアジア系の衣服をまとった両手で支えられて、ひざの上に安定していた。衣服のすそから、漢字のような文様が縦に伸びていた。文様を辿りながら、腹部、胸部を経由して再びスケッチブックの高さまで視線が戻ったところに彼の頭部があった。視線がそこへ辿りついた時、同じタイミングで、青年は僅かに顔を上げた。いささか爽やかな青年であった。彼の頭の向こうには窓があって無造作な後ろ髪が映り込み、その向こうには薄暗い田園風景が等速で流れていて、私は彼の前に立ってつり革を握っていた。周囲の乗客は各々その時空に納まり、景色と同じリズムで刻まれる走行音は誰の耳にも入らずにしかし確実に空間を満たしていた。
ここは会社帰りの電車、目的地まではあと4駅。眼鏡が無いせいで、青年の目が本当に私を見ているのかははっきりしなかった。目の前に突き出されたスケッチブックの端が、私の視力の限界だった。

「描いていいですか?」

目だけでもう一度読んだ。ちょうど私の目と鼻の先にその文面があり、それを書いたと思われる青年は座ってこちらを見上げている。ということは、これはひょっとして私に向けられたメッセージなのか。と、確認しようと(どのように確認するかまだ決めていなかったがとにかく)動作に移ろうとした絶妙のタイミングで、青年は目をスケッチブックに戻した。ページの中央部には何か書いてあるのだろうか、角度が悪くてよく見えない。気付かれぬようにそっと首を落とし、電車のゆれに合わせて自然な動きで覗き込もうとしたその瞬間。
彼は、静かに、ページを捲った。すると、次のページの同じ位置に、別の文面が現れた。

「まだ見ちゃだめですよ。」

思考が再開するのに二呼吸かかった。偶然の一致だろうか?私が覗こうとしたのを見透かしたように現れた文字。彼はもう私の方を見ていない。本当に、自分に向けられたメッセージなのかどうか。「描いていいですか」とはどういう意味か。似顔絵でも描くのだろうか。そうだ、彼は毎日こうしてたまたま目の前に立った人を描き貯めている、芸術学校の学生なのかもしれない。それならいい、勝手に描いてくれ。私としては特に抵抗は無い。
あるいは、たまたま、そう、たまたま彼は以前スケッチブックにこの文面を書いて、それがたまたま私の目の前に提示されている。それだけかも知れなかった。そういえば今日私が眼鏡を持っていないのは、たまたま昨晩はいつもの場所に戻さず、しかもたまたま部屋が散らかっていたので、どうにも発見出来ないのだ。偶然というのは重なるものなのだ。
経緯はともかく問題は、これらの端書きが私の為のものかどうかだ。しばらく悩んだが、どちらでもいいということに私はようやく気付いた。そう、ただ立っていればいい。彼が描き始めれば判ることだ。描き始めなくても、自分の駅に着いたら降りるだけ。どちらにしても、私がここで動かずに立っているというのはごく普通のことではないか。どちらにしても、私の行動は影響を受けない。だったら、どっちでも同じことだ。さあ、リラックスしよう。

とはいえ私は、考えるのをやめることがなかなか出来なかった。一駅が過ぎてから、私は、読みかけの本があったのを思い出した。そういえば、さっき電車が止まって乗客が乗り降りしていた頃、私は何をしていただろう。周囲の人間が一斉に動く中で、私だけ不自然にじっとしていなかったろうか。そう思うとその不自然を急に払拭したくなって、私は左手に持った鞄から本を取り出すために右手を動かそうとした。その瞬間。(さっきからこの妙なタイミングは何なんだ!)青年がまた静かにページを捲った。私は、数センチ上がった右手を忘れて、ページの端に新たな文面が見えるのを待った。

「まだ緊張していますね。描かれるのは嫌ですか?」

ちらりと、ページの中央部が見えた。エンピツで描かれた、若い女性のラフスケッチのようだ。青年は、スケッチブックの中央部をみながら、ほんの少し思い出し笑いをしている。ふいに、青年と、ちょっと緊張した女性との会話が私の脳裏にも浮かんだ。絵のタイトルかメモのようなものか。たまたま眼鏡がないばっかりに視界が狭くなり、絶妙の位置にあった文字だけがはっきりと見えたのだ。
私は少し気が抜けた。右手が中途半端な位置で静止しているのを思い出し、その不自然な動作に理由をつけるためになんとなく右肩の体操のような仕草をした。そこから、再び本をとるために鞄へと右手を動かした。同時に彼がまたページを捲りはじめた。(今度はまた随分と捲るのが早いじゃないか!)が、私は手を止めない。(ただの偶然さ。)私の右手が鞄に到達するのと同時に、彼もページを捲り終えた。(もちろん偶然だとも!)私は意識して慎重に鞄の中へと視線を移そうとしたが、うっかりして、またスケッチブックの端に現れた次の一文に目を留めてしまった。

「本でも読んでてください。すぐ描いてしまいますから。」

私の全身は再び急静止した。あまりの加速度に反動で僅かに跳ね上がりそうだった。予測されているぞ!いや、偶然か?鞄に到達してしまった右手の使い道を考えようとしたが、脳の一部分だけが小さく空回りして、全体に動力が伝わらない。鞄の中に他に何が入っていたかも思い出せぬまま、慣性にしたがって右手は鞄を開けた。取り出せそうなものは、読みかけの文庫本だけだった。私は恐る恐る本を取り出し、右手で開いた。

もはや私は、緊張を隠すのに必死だった。全身の筋肉でもって視線を本の上に固定しながらも、文面はまったく入ってこなかった。視野の端にぎりぎりで入っている彼の目が、私を観察しているような気がしてならない。
何か描き始めたぞ!エンピツの音が聞こえる。圧倒的にコントロールされている!全て予測され、計画されて、私は青年の目の前で本を読まされ、彼は私を描いているのだ!今すぐ本を閉じたかったが、その瞬間またページが捲られるに違いない。彼の指示には逆らえない!どう動くか?何が起きるか?
エンピツが止まり、彼はスケッチブックから1枚をびりびりと破り取る。終わったぞ!動いていいのか?びりびりびりびり。脳内に亀裂。音の中で、私の緊張は頂点に達した。手が震えて汗をかき、文庫本が滑り落ちた。青年がそれを空中でキャッチした。完全に予測していたとしか思えないタイミング!

「落ちましたよ。」

初めて青年の声を聞いた。普通の、落ち着いた、風貌に似合うトーンの声だった。一瞬の静寂を感じ、直後に車内アナウンスが聞こえた。目的地に着くところだった。控えめなアジア系の服のよく似合う青年は、軽く微笑んで本を私に差し出したまま待っている。私は、ありがとうと言って本を受け取り、電車を降りた。ありがとう、の言葉と共に緊張が抜けたようで、地面は意外なほど静止していた。

家に着いたらまず眼鏡を探そう。視野が狭いというのは実に恐ろしい。そんなことを思いながら家まで一人歩く。夜風が冷たくて気持ちよかった。

家に着いて鞄を開けると、さっきの文庫本に1枚の画用紙が挟まっていた。そこに描かれていたのは私の似顔絵ではなく、昨晩私が読んでいた雑誌に良く似たイラストだった。
はて。
見比べてみようと、ベッドの上に放り投げてあった雑誌を手に取り、持ち上げると。

その下に、探していた眼鏡があった。


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